特別展『團藤重光の世界-法学者・最高裁判事・宮内庁参与』の観覧報告 ~團藤ノートを観て~

2023年6月14日


龍谷大学の深草キャンパス至心館2階にて、團藤重光生誕110周年記念特別展『團藤重光の世界-法学者・最高裁判事・宮内庁参与』が、2023年5月22日から6月4日まで開催されていた。

筆者は、開催期間中にこの展覧会を訪れ、途中から唯一のアーキビストによる解説も受けることができた。内容的に、大変興味深いものであったため、その展示会の観覧の報告と感想を、以下では述べたい。

なお、入口以外は、撮影不可であったため、展覧会の全体の構成などは筆者の記憶によっている。


1 團藤博士の学者時代

まず、入ってすぐのブースの展示ケースには、團藤博士の東大の学生時代のノート(我妻先生の民法など)が展示されていた。ノートは、見開き右側のページに講義内容を筆記し、左側のページには、メモなどを記入するスタイルであった。当時の東大生は、このようなノートの取り方が多かったというのがアーキビストの談であった。字は、万年筆による筆記と思われ、流麗でありながら、読解困難というほどには崩れてはいなかった(なお、後述の小野清一郎の字は独特の丸文字で読解困難であった。)。

同じケースには、團藤博士自身が東大で講義を持たれていた際の講義ノートも展示されていた。

講義ノートは戦後のものであったが、戦前の学生時代のノートの方が良い紙質のものであるため、綺麗に残っているとのことであった。

隣の展示ケースには、刑事訴訟法の制定資料や、売春防止法の制定資料も展示されていた。売春防止法の制定資料には、團藤博士が、売春自体は悪であるものの、売春婦を処罰よりも救済を必要とすべきである旨発言し、売春防止法の立法の方向性を基礎づけた箇所が示されていた。

※売春防止法では、その3条にて売春をすることとその相手方となることを禁止している。しかし、売春そのものには罰則がなく、5条以下の勧誘等の売春助長行為に、罰則が設けられている。
 團藤博士は、売春助長行為そのものが罰則の中軸であって、売春という正犯があり、その共犯的形態を独立の構成要件とするという考えはこの法律の基本的精神と相容れないと注意している(團藤重光『刑法綱要各論』(創文社、1964)278頁)。
 この法律のもう一つの特徴としては、売春勧誘等をした満20歳以上の女子に対して、全部執行猶予とする際には補導処分が可能で(同法17条1項)、婦人補導院に収容して必要な補導を行える(同条2項)となっていることが挙げられる。
 婦人補導院法は令和4年に廃止され、困難な問題を抱える女性への支援に関する法律が新設された。

次の展示ケースには、團藤博士の多数の日記が展示されていた。團藤博士は、2012年に亡くなっているが、2010年まで日記が残っているということである。日記は、元々、團藤博士の妻(勝本正晃の娘)が團藤博士に勧め、その後、より詳細につけていくようになっていったとのことである。日記は、別荘のあった軽井沢日記以外、閉じた状態で展示されていたが、ページに貼りつけられた紙などが頭を覗かせていた。その日その日の資料を日記に貼り付けて、集約し、何でも集めていたようで、日記は元々の倍近い厚みとなっていた。

その隣の展示ケースには、旅行カバンと旅行時の雑多な物や地図、そして、旅行時の日記が展示されていた。旅行時には旅行用の別の日記を準備して日記をつけ、さらに、その時の旅行での資料等はケースに一纏めにして保管していたという。なお、文章が上手かったため海外旅行に行き執筆すれば、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している(團藤重光『刑法紀行』(創文社))。

最初のブースの最後には、高等文官試験行政科試験(現在の国家公務員試験)と司法科試験(現在の司法試験)の合格証書が展示されていた。いずれも東京帝国大学在学中の合格である。ちょっと受験してみるかというような姿勢で受けて、当然のように受かったのではないかと思われる。

同じ展示ケースには、『訴訟の発展と判断の標準』という團藤博士の法学博士の学位論文(手書きで、朱書きの修正跡もあった。)と、師匠である小野清一郎からの手紙、さらには、1935年(22歳)で、東大の助手になったことの新聞記事の切抜きも展示されていた。團藤博士は、自分が、新聞に載ると、その切り抜きを作り、日記に貼るなどして、必ず残していたという。極めて優秀でありながら、世間からどのように見られていたかも気にしていたとのバランスが興味深い。

※なぜ龍谷大学にこれだけの資料が寄贈されたのか。
 團藤博士は、4万冊を超える蔵書を始め、文書類(ノート、現行、立法資料、日記、手帳)、書簡類、写真、絵画、音声資料など、多種多様な生活資料を含むコレクションを遺品として残されていたところ、團藤博士の生前の意思に基づき、10万点に及ぶコレクション全てを龍谷大学に寄贈されたという。東京大学を含む他の大学ではこれをそのまま受け入れることができなかったということでもあったようである。
 龍谷大学矯正・保護総合センターで「團藤文庫」としてこれを保管している。

2 團藤博士の略歴

隣のブースに行く手前には、團藤博士の略歴一覧がパネルにて示されていた。

團藤博士の父は、元々検事で、その長男として、團藤博士は山口県で生まれた。そして、父が弁護士になるに当たり、岡山市に家族で引越した。團藤博士は、自分の著書などで、岡山出身だと述べるのはこのような経緯を受けてのようである。

その後、小学校、中学校を飛び級で卒業し、第六高等学校(六高)を経て、東京帝国大学に入学した。

東京帝国大学では法学部卒業後、助手、助教授、教授となっていき、法学部長になった後、1974年に東京大学を定年退官した。同年4月から10月の半年間だけ、慶應大学教授となるが、すぐに、最高裁判事となる。

1974年から1983年まで最高裁判事を務める。

1989年からは宮内庁参与となる。

團藤博士は、90歳を過ぎても壮健で、龍谷大学の教授も務めた。なお、授業は、弥生の團藤博士の自宅に行って受けることになったという。

2008年には、キリスト教の洗礼を受け、2012年に逝去している。

團藤博士の信仰の経過は興味深く、幼少期は陽明学を学んだ後、東京大学では師匠である小野清一郎から仏教の影響を強く受けていたという。その後、最後には、キリスト教の洗礼を受け亡くなっている。團藤博士によれば、別々の宗教でも、同じ山を別の道で登って行っているようなものであるといった話があったという。

この略歴一覧のパネルの裏側には、團藤博士の趣味であった写真が幼少期から壮年期まで沢山張り出されていた。揮毫の写真はなかったものの、「人間愛」などの毛筆も残っているということであった。


3 團藤博士の最高裁時代と團藤ノート

 そして、次のブースでは、真ん中の展示ケースに、團藤博士の勲一等旭日大授章が飾られていた。團藤博士が、1987年に受章したものである。なお、その表彰状には、現在の天皇と上皇の両名が署名してあった。

このブース入って右側の展示ケースには、複数の写真が展示されていた。その中には、天皇・皇后や上皇・上皇后との写真などもあった。他にも種々の写真が残されているものの、関係者のプライバシーもあり、限られたもののみ展示されているという。

その左隣の展示ケースには、團藤博士が学生時代の寄宿先などで描いた絵や、スケッチが数点飾られていた。團藤博士は、美術も愛好し、展覧会に行けば、購入した図録にコンパクトなコメントを書き記して残していたという。また、漢文を書いたり、揮毫なども残っているとのことであった。

このブース入って左側の展示ケースには、團藤博士が最高裁判事であった時の事件ノート35冊、最高裁判事の法服、木彫りのネームプレート、著書の改版過程や、『死刑廃止論』(外国語翻訳版も含む。)などが展示されていた。事件ノートは、閉じたまま展示されていたものの、ノートの表紙には当該ノートで検討していた事件名が記入されており、團藤博士の細かさと事件管理がわかるものとなっていた。

そして、このブース入って奥の展示ケースに、事件ノートとは別に、大阪空港公害訴訟に関する、「雑記帳」が展示されていた。

團藤博士は、事件ノートとは別に、雑記帳も最高裁判事時代に作成していたとのことである。ただ、現在発見されているのは2冊だけだとのことであった。しかし、今後、見つかるかもしれないという。

そして、この雑記帳においては、大阪空港公害訴訟の上告審として係属した、團藤博士のいる第1小法廷における審議経過が見て取れた。

※大阪空港公害訴訟の概略は以下の通りである。
 飛行機の騒音被害などを受けたとして大阪府と兵庫県の住民複数が、午後9時から翌朝午前7時までの民事訴訟に基づく飛行差止と、国家賠償法による損害賠償を請求した。1審の大阪地裁は、午後10時以降から午前7時までの差止と損害賠償を認めた(大阪地判昭和49年2月27日民集35巻10号1621頁)。
 両当事者の控訴を受けた大阪高裁は、住民の請求した午後9時から午前7時までの差止と、損害賠償を認めた(大阪高判昭和50年11月27日民集35巻10号1881頁)。
 これを受けて、国が上告して、最高裁に係属した。なお、国は、大阪高裁判決を受け、午後9時から午前7時までの飛行を中止していた。

團藤博士の雑記帳によれば、一応の結論として、2審判決を是認していいのではないかとし、その根拠としては、「人格権」というしかないであろうといったことも記載されていた。

第1小法廷は、1978年5月22日に弁論を開いて結審し、判決言渡期日も数か月後に指定していた。ただ、いきなり判決というよりも、和解による解決ができないかを模索し、国側には、原審維持を前提とした和解勧試をしたようであった。

ところが、1978年7月18日に、国は、大法廷回付を求める上申書を提出してきた。

團藤博士の雑記帳には、翌7月19日になり、第1小法廷の岸上裁判長から、團藤博士が聞いた話と所感が記されている。岸上裁判長は、岡原最高裁長官の長官室を訪ねたところ、偶然、村上元最高裁長官から電話があり、大法廷回付の要望が伝えられたということであった。團藤博士は、この話を岸上裁判長から聴き、村上元最高裁長官につき、

法務省側の意を受けた村上氏(代理人としての授権受任はない由)

と書いている。そして、その後に、

(この種の介入は怪しからぬことだ。)

と書いている。

さらに、雑記帳の余白となっている見開き左側のページ(上記の團藤博士のノートの取り方参照)には、結審後の今になって、このような上申をしてくることは好ましくなく、引き伸ばし作戦でもあろう旨の記載もあった。

團藤博士としては、国側の態度を批判的に見ていたことが窺える。

しかし、その後は、雑記帳の記載によれば、團藤博士ほか第1小法廷の判事は、岸上裁判長に、大法廷回付をするかどうかにつき、一任をしたようである。

その後の経過は、展覧会の別ブースで放映されていたNHK・Eテレで特集「誰のための司法か~団藤重光 最高裁・事件ノート~」で示されていた通りである。第1小法廷は、1978年8月31日に大法廷に回付した。同年11月7日に弁論を開き結審したが、判決が出されず、2年後の1980年4月16日に再度弁論再開とし、同年12月3日弁論を開き結審して、翌1981年12月16日に大法廷判決が出された。

その内容は、差止については、原審を破棄して棄却するというものであった。NHK・Eテレ特集では、この大法廷判決を受け、その後の公害訴訟に対する裁判所の消極的な判断に繋がっていったのではないかとの指摘がなされていた。


4 團藤博士の反対意見と展覧会の感想まとめ

團藤ノートによって明らかになった司法権の独立に関する問題等については、大阪弁護士会の会長声明でも指摘がされている(https://www.osakaben.or.jp/speak/view.php?id=316)。

元最高裁長官が、国の代理人であるとの暗黙の了解があったこと、一任を受けた第1小法廷の長官が大法廷回付をしたことなど、司法の独立と司法への信頼を揺るがすものである。

ただ、本稿では、この論点についてはこれ以上触れず、團藤博士の、大阪空港公害訴訟の最高裁判決(最大判昭和56年12月16日民集35巻10号1369頁)での反対意見に言及し、感想のまとめとしたい。

團藤反対意見は、公害訴訟に関して、本来的には新しい立法措置を待つべきものが多々あるとした上で、次のように述べる。

「わが国においては、新しい事態に対する立法的対処がきわめて緩慢であり、ばあいによつてはむしろ怠慢でさえもあるということである。このことは、いわゆる国益に直結することのない社会的ないし個人的な利益に関する場面においてとくにいちじるしいようにおもわれる。ことにそれが訴訟法のような司法法規に関するときは、なおさらである。」。

そして、それゆえ、

「わが国においては、おなじ成文法国であつても立法的対応が機敏におこなわれる国におけるよりは、裁判所が法形成の上で担うべき役割はいつそう大きいといわなければならない。」

と強調されている。

さらに、

「事態に対する対処のしかたとして、立法によることがかならずしも適当とはいえない事柄がある」

ことも指摘されている。

「法の改正は事態への対処が端的であるかわりに、ややもすれば一気に急激な変革をもたらす。むしろ、個々の事件の事案に即応して、判例の展開によつて妥当な解決をはかりながら、その集積によつて漸進的に法形成をはかつて行くのが適当なことが、いくらもあるのである。」「判例による法形成は、英米法のような判例法国において典型的にみられるものであるが、わが国のような成文法国においても決して相容れないものではない。法は生き物であり、社会の発展に応じて、展開して行くべき性質のものである。法が社会的適応性を失つたときは、死物と化する。法につねに活力を与えて行くのは、裁判所の使命でなければならない(団藤・法学入門一六三頁以下参照)。」

とまとめられている。

これらの2点を受けた上で、

「もちろん、司法権の使命には厳然たる限界があり、いやしくもその限界を逸脱して立法権・行政権を侵犯することがあつてならないのは、三権分立の大原則からいつて当然のことであるし、司法権が過大の任務を引き受けることは司法の本質そのものからいつても許されないことである。しかし、このことと、裁判所が司法の本来の任務の範囲内において、法の解釈適用に創意工夫を凝らしてあたらしい事態に対処して行くこととは、全く別のことである。」

と裁判所の在り方についての注意を述べていた。

しかし、わが国の立法の遅さは、この反対意見から30年以上経過した今でも妥当するように思える(逆に、立法事実の存在しない・不十分な拙速な立法が散見されるように思える。)。

また、法に常に活力を与えるべきとした裁判所の使命も、形骸化していないであろうか。

さらに、團藤博士の考えの背後にあったと思われる「人間愛」の精神を、立法において忘れていないか。

現在を生きる我々に対しても、團藤博士の指摘した問題点は、解決せずに重く横たわっているように思えてならない。

参考資料:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF230DQ0T20C23A5000000/

https://mt-law.jp/blog/2023/04/post-171.html