インターネット時代のわいせつ表現規制

2021年3月27日/す

【1】ここ30年におけるインターネットの急速な普及
【2】ここ50年余りのわいせつ表現の変化
【3】インターネット時代におけるわいせつ表現規制
【4】最高裁判所の見解
【5】ネットで無修正ポルノが見られるようになって日本の性風俗環境はどうなった?
【6】わいせつ罪の保護法益
【7】わいせつ表現はなぜ問題なのか?
【8】わいせつか否かの基準
【9】そもそもどんな状況を防止すべきなのか?
【10】結びとして
【11】蛇足として


【1】ここ30年におけるインターネットの急速な普及

 ここ30年ほどで最もわれわれの生活を変化させたものといえば、やはりインターネットであろう。ちょうど30年前の1991年、私は司法修習生だったが、当時はインターネットなどまったく普及していなかったと思う。現在では「ワープロ」と言えば、パソコン上で動くワープロソフトを意味するが、当時はまだワープロ専用機を意味していた。法曹業界では富士通の「オアシス」というシリーズが主流だということで、司法試験合格後に購入した記憶がある。現在のデスクトップPCに取っ手を付けたような代物で、メチャメチャ重かった。

 弁護士になって少ししたころ、ようやくパソコンで文書を作成するようになった。「Windows95」が出たころからだから、1995年くらいだろう。それでも、最初のころのパソコンは、インターネットには接続されていない「スタンドアローン」のものが普通だった。必要なソフトウェアは、箱に入って店頭で売られているものを買って来て、フロッピーディスクCD-ROMからインストールしたものである。

 一方、現在ではどうかと言えば、ワープロ専用機などというものはもはや存在しないし、インターネットとつながっていないパソコンなど考えられなくなっている。そもそも、ほとんどの必要なソフトはネット上からダウンロードしている。CD-ROMからインストールしたのは、もう何年前のことであろうか。今では「パソコンとはネットに接続されているもの」であるのが常識である。その一方で、DVDドライブが付属していないパソコンも普通になりつつあるのが現在だ。

【2】ここ50年余りのわいせつ表現の変化

 他方で「わいせつ表現」に関しても、ここ50年余りでの変化は著しい。昔の男の子たちは、たいがい河原に落ちていたエロ本から性に目覚めるのが一般的であり、そのうち自動販売機で「有害図書」を購入し、友人同士で回し読みをするようになるという進化の過程をたどったものだった。

 「ビニ本」(ビニール本)と呼ばれる無修正のポルノ写真集が小さな書店の怪しげなカーテンの奥でこそこそと販売されるようなったのは、私が大学生になった1980年代前半のころであったと思う。大学に入り、心を改めて司法試験の勉強などを始めたころだったが、その仲間の1人からの提案でみんなしてぞろぞろと新宿の歌舞伎町までそれを買いに行ったことを憶えている。そして、購入してきたビニ本を早速みんなで回し読み。やってることは中学生・高校生のころとまったく進化がないのであったが、その一方でエロ本のほうは確実に進化しており、よい時代になったと驚いたものだった。なお、そのころのビニ本の販売される様子は、山田孝之主演の「全裸監督」で見ることができる。まさにあんな感じだった。

 AV(アダルトビデオ)が流行り出したのも、それと同時期くらいだっただろうか。当時VHS方式のビデオデッキが急速に普及したが、それにはAVの「ビデオレンタル」が大いに貢献したと聞いたことがある。

 その後、1990年代後半だろうか、ちょうどパソコンが普及し始めたころ、秋葉原に行くと無修正のCD-ROMが手に入るというウワサを聞き付け、わざわざ秋葉原まで買いに行ったことがある。私に関して言えば、残念ながらそのような代物を入手することはできなかったのであるが、実はこのようなウワサがわが国におけるパソコンの普及を後押ししたのだ、という話を随分後になって聞いた。

 なるほど。見たいとなったら何が何でも見たいというのが男という生き物の性分である。そして、VHSビデオにしろ、パソコンにしろ、そのような男という生き物に備わった強烈なパッションがその普及に大いに貢献したという説には十分な説得力があるように思われる。

 なお、当時私が通っていた大学は神田神保町にあったのだが、ときどき馴染みのエロ本屋が警察の摘発を受けていたことを懐かしく思い出す。

 さて、では現在はどうかというと、エロ本にしても、エロビデオにしても、まず購入することはない。むろんレンタルもしない。そんなことをしてまで入手する必要は、最早なくなってしまったのである。

 その原因は何か? 「精力の衰え」などという失礼な推測はご遠慮願いたい。そうではなく「インターネットの普及」である。インターネットの普及によって、ポルノは今やパソコンを立ち上げさえすれば「見放題」という状態になってしまったのである。

 いまどきはどこの河原に行ってもエロ本など落ちていない。むろん歌舞伎町に行ってもビニ本を買うことはできないだろう。もはやだれもそんなものは買わないのである。買う必要がないから。インターネットが見られる限りは。

【3】インターネット時代におけるわいせつ表現規制

 さて、長々と何の話かと思われるかもしれないが、結局、言いたいことは「ここ30年間のインターネットの普及によって、わいせつ表現をめぐる社会環境は著しく変化した」ということである。そしてこのような社会環境の変化に応じて、わいせつ表現規制の在り方も当然に見直されるべきだろう、ということなのである。

 私は、かつて、わいせつ電磁的記録等送信頒布罪などが問題となった東京高裁判決(平成25年2月22日判決)について判例評釈を書いたことがある。その判決で問題となった事案は、ざっくりと言えば、被告人らが海外に置かれたサーバコンピュータにわいせつ動画等のデータを保存する方法によって有料ポルノサイトを運営し、日本の不特定の利用者がそのサーバから自己のPCにわいせつ動画等をダウンロードして大いに楽しんだ、というものである。これが、わいせつ電磁的記録等送信頒布罪(刑法175条1項後段)に該当するかどうかが争われた。

 解釈論としては、利用者が自らサーバにアクセスしてわいせつデータをダウンロードする場合でも、これが「頒布」に該当するかどうかが問題とされ、東京高裁はこれを肯定した。すなわち「頒布」とは、不特定または多数の者の記録媒体上に電磁的記録その他の記録を存在するに至らしめることを言い、被告人らの行為はこれに該当する、としたのである。

 私はこの高裁判例の評釈において、この「頒布」の解釈はともかく、被告人らは「電気通信の送信により」という要件を充たしていないとして、判決の結論に反対したのであるが、細かい解釈論はここで私が問題提起したいことの本質ではないのでこれ以上は立ち入らない。

 ただ、次の2点だけ指摘しておきたい。

 第1に、平成23年の刑法改正前、本件同様の行為は「わいせつ電磁的記録媒体公然陳列罪」として処理されていた。ただ、この場合はサーバコンピュータのハードディスク自体が「わいせつ電磁的記録媒体」であると位置づけられていたため、サーバコンピュータが海外にあり、かつ、これへのわいせつデータのアップロードが海外から行われた場合は、国外犯となり、処罰することができなかったのである(アップロードが国内から行われた場合は処罰が可能であった)。

 第2に、この裁判で問題となった「わいせつ電磁的記録等送信頒布罪」は、平成23年の刑法改正で加えられたものである。しかし、この改正案の立案担当者がその処罰対象として予定していた行為態様は、本件のようなものではなかった。そうではなく、行為者が電子メールにわいせつ画像等のデータを添付して大量に送信するというようなものであったのである。

 その意味では、本件は、平成23年の刑法改正前であれば処罰の対象とはならず、かつ、平成23年刑法改正で加えられた「わいせつ電磁的記録等送信頒布罪」についても、立案担当者の想定では、おそらくは有罪とはならなかったものなのである。その意味で、本件は平成23年に新設された「わいせつ電磁的記録等送信頒布罪」が、立案担当者の想定した範囲を超えて適用された結果、有罪とされるに至った、というものなのである(←ここ大事なところ)。

【4】最高裁判所の見解

 上記の東京高裁判決に対し、被告人側は上告し、その上告審において、最高裁判所は上告を棄却した(平成26年11月25日決定)。その内容は、基本的には東京高裁の解釈論を支持したものだが、東京高裁判決が見落としていた「電気通信の送信により」との点に対する一応の言及がある。

 我ながら間抜けだったのは、東京高裁判決に対する私の判例評釈が掲載されたとき(平成26年12月19日)には、すでにこの最高裁の決定が出ていたことである。……が、まあそれはよい。それはともかくとして、私自身は、この最高裁の判断も極めて問題だと思っている。解釈論としてもそうだが、それ以上に、司法政策として大いに疑問があるのである。

 と言うのも、控訴審の時点ですでに弁護人が主張していたところであるが、もしこの事案を有罪とするならば、ポルノサイトの設営者が、海外から海外のサーバにわいせつデータをアップロードした場合でも、当該サイトへのアクセスが日本から可能であれば、わいせつ電磁的記録等送信頒布罪が成立することとなってしまうのである。これは、つまり「海外で適法にポルノサイトを運営している外国人についても、日本からのアクセスが可能であると、知らぬ間に日本において、わいせつ電磁的記録等送信頒布罪が成立してしまう」ということを意味している。そして、これは、その外国人がたまたま来日すると、逮捕され処罰される可能性がある、ということなのである

 これは、例えば、昨年(2020年)、カナダのMindGeek社が運営する世界的に有名なアダルト動画サイト「Pornhub」が新型コロナウィルスによるソーシャルディスタンスを支援することを意図して、同社の有料サービス「Pornhubプレミアム」を一定期間提供するなどし、「さすがPornhub!」と賞賛され、世界的にニュースにもなったのであるが、仮に、同社の経営陣が日本を訪れた場合には、逮捕され、わいせつ電磁的記録等送信頒布罪として処罰されるおそれがある、ということなのである。

 しかし、これはあまりにも不合理ではないか? これでは、海外でポルノサイトを運営している会社の関係者たちは、おちおち日本に旅行に行くこともできない、ということになる。

 最高裁の決定には、この点についての言及はない。しかし、東京高裁の判決はこの点について述べている。いわく「実際上の検挙の可能性はともかく、我が国における実体法上の犯罪の成立を否定する理由はなく、所論のいう点は、前記のような解釈の妨げとはならない」と。

 はぁ……。なんか問題意識が噛み合ってないようです。

【5】ネットで無修正ポルノが見られるようになって日本の性風俗環境はどうなった?

 すでに述べたように、私の記憶する限りでも30年前はインターネットはまだ一般的ではなかった。総務省のサイトに掲載されている記事でも、インターネットは「平成の30年の間に広く一般に普及した」と説明されている。

 インターネットの利用率が急激に増えたのは、総務省のデータによれば、1997~8年ころからで2005年ころまでの7~8年ほどの間に利用率は10%から70%ほどまで増加している。そして、2009年には80%近くにまで達し、その後は、80%付近で横ばいの状態にある。つまり、今から12年くらい前の2009年ころには、わが国のインターネットの利用状況はすでに現在と同じレベルにあったと言うことなのである。

(総務省のサイトから)

 と言うことは、2009年ころには、現在と同じように、日本でも、だれもが、手軽に、世界中の無修正のポルノサイトを楽しむことができる状況にあった、ということである。

 2009年と言えば、平成21年であり、法曹業界では、まさに裁判員制度が実施された記念すべき年であるが、その年は、奇しくも、同時に、日本でも、だれもが、手軽に、インターネット上で無修正ポルノをバンバン見ることができるに至った「インターネットポルノ元年」とでも称すべき年なのでもあったのだ。

 では、そのような2009年の前と後で、わいせつ表現をめぐる私たちの生活環境はどのように変化しただろうか? もはやどのパソコンもインターネット回線に接続され、どのパソコンからでも「Google」でちょちょいのちょいと検索をかければ「Pornhub」その他の有名ポルノサイトにアクセスでき、無修正ポルノをバンバン見放題という状態である。

 さあ、大変だ。日本の性風俗環境はもはや戦国時代だ、大混乱だ……ということになったであろうか?

 否。そんなことはない。そんなことはまったくもって聞かない。

 むしろ近年問題視されるようになったのは、そのようなネット上での無修正ポルノの「氾濫」ではなく、コンビニエンスストアでの成人誌(もちろん無修正ではない)の販売あったり、超ミニスカートと巨乳で描かれた萌え絵によるポスター等の公共の場での掲示の是非であったり、と言った「日常生活の中に紛れ込んだエロ」の問題であったように思われる。

 つまり、ネット上での無修正ポルノの存在自体は、それに対して国民のだれもがアクセスできるようになって以降も、何ら問題視はされて来なかった。せいぜいのところ「子どもたちが親の目を盗んでこれらにアクセスできると困る」というくらいのもので、これにしてもフィルタリング等によって法による規制を待つまでもなく一応解決されていると言ってよい状態であろう。

 結局、2009年(インターネットポルノ元年)の前でも後でも、わが国における性風俗環境が劇的に憎悪し、性風俗の乱れが著しくなった、などということはまったくないのである。

 そして、もしもこのような現在のネット環境がわが国の社会に対して何らの害悪(=法益侵害)をももたらしていないとするならば、逆に「何故にわれわれはそれを規制すべきなのか」ということが問題とされなければならないだろう。いや、より正確に表現するならば「規制することが許されるのか」ということがあらためて問われなければならないはずなのである。

 そして、これに対する答えは単純明快で、もしそこに害悪(法益侵害)が存在しないならば「それを規制することは許されない」あるいは、少なくとも「刑罰をもってしてこれを規制することは許されない」ということになるはずなのである。

【6】わいせつ罪の保護法益

 さて、与太話から始まったこの文章もようやくここへ来て、少々アカデミックな香りを醸してきたところであるが、では、そもそも、わいせつ文書頒布罪などのわいせつ表現を規制する刑罰法規(以下「わいせつ罪」という)の保護法益は一体なんなのであろうか?

 この点、かつての通説は、わいせつ罪の保護法益を健全な性風俗、性道徳、性秩序の維持などと解していた。判例も同様である。

 そして、このような見解によれば、健全な性風俗、性道徳等によって「公然」たるわいせつ行為やわいせつ物の「頒布」等が禁止されるのは、そこに「性行為非公然の原則」のようなものが存在するからであり、それゆえ、これを公然と行うには限度があり、この限度を超えた場合には性秩序に違反したものとして処罰の対象になる、とされるのである。

 しかし、つとに主張されているように、価値観の多様化した現代社会において一定の性道徳を刑法によって万人に強制するということは、刑法のあるべき基本姿勢としてそもそも正しくないだろう。刑法は「最低限の道徳」を強制するものではなく、法益を保護することによって社会生活の基盤を形成・維持する社会統制の手段と見るべきである。そして「道徳」のようにそれ自体が規範であるものを保護法益と見ることも、また正しくない。

 そこで、上記のような通説的見解に反対し、成人の自由意思に基づくかぎり、わいせつ罪は不可罰とすべきであり、ただ、見たくない者の自由の侵害性的に未発達な青少年の保護という観点からのみわいせつ罪の処罰は正当化される、との主張も、古くから存在したところである。

 私も、基本的にはこの立場に賛成する。ただ、この見解に最初に触れたときから感じていたことなのだが、この「見たくない者の自由の侵害」という表現は、何かちょっと違う気がする。確かにそう言われればその通りなのだが、それにもかかわらず、この表現では「わいせつ表現がなぜ問題になるのか」というその本質が、うまく言い当てられていないように感じるのである。

 そして、その点がうまく言語化されていないと「どのようなわいせつ表現」こそが規制されるべきなのか、という規制基準についても、どこかピントのズレた議論になってしまうように思われるのである。

【7】わいせつ表現はなぜ問題なのか?

 では、なぜわいせつ表現は問題なのか?

 「見たくない者の自由の侵害」こそが問題であるとした場合、私が友人から「少なくともお前は『見たくない者』ではないよな」と言われれば、私としてはグーの音も出ない。「はい。おっしゃるとおりでございます。大好きでやんす」としか言いようがない。

 しかし、そんな私でも「いまは勘弁してほしい」という瞬間というものは、あるものなのである。

 それはいつか? 娘と一緒にいる時である。その場面だけは、いつになくダメなのである。それなぜか? おそらく、娘といるときは無意識に「威厳のある父」を演じているからであろうと推測される。そして、言うまでもなく、裸の女性を目の前にしてデレデレと鼻の下を伸ばしているような姿は「威厳のある父」とは相容れないからだ。そのため、どうしてよいか解らず「困惑する」のである。

 そこでハッと閃いたのだが、わいせつ罪が問題としているのは、実はこのような場面ではないだろうか?

 つまり、男であれ、女であれ、動物である以上、日常生活の中でエロいことを考える場面というものは、必ずある。そうでなければ人類は子孫を残すことさえできなくなってしまうのだから当然であろう。しかし、そうであったとしても、その一方で「いまその話題を出されても困る」という場面は、われわれの社会生活上において確実に存在するのである。そして、そのような場面において、突如わいせつ物と遭遇すると、人は非常に困惑する。狼狽し、アワアワとなり、変な汗をかく。そこで、このような事態を生じさせないようにすることこそが、ぶっちゃけ「わいせつ罪の定められた理由」ではないか?

 人がエロいモードにある場面を比喩的に「」、そうでないモードにある場面を「」と表現した場合、本来「夜」のモノであるはずのわいせつ物が「昼」の場面に登場すると、人々は面くらい困惑するのである。そしてそのような事態は、社会生活にさまざまな不都合を生じさせる。少なくとも生活しづらくなる。そこでそのような事態を避けるために、わいせつ罪が設けられた。わたし的には、そう考えるとその存在理由が極めてスッキリと腑に落ちるような気がするのである。

 そして、仮にこのような考え方が正しいとするならば、「わいせつ」かそうでないかの基準も、自ずと従来とは異なったモノとなるはずなのである。

【8】わいせつか否かの基準

 「わいせつ」の概念については「徒らに性慾を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するもの」という最高裁判所が昭和26年5月10日判決において示した定義がある。

 しかし、わいせつ罪の本質が性道徳や性秩序に対する侵害ではないなら、「善良な性的道義観念」など登場すべくもない。また、それは「徒らに」性慾を興奮・刺激させるか、「正常な性的羞恥心」を害するか、というような絶対的基準ではなくなるだろう。

 ここで私が「絶対的」と表現するのは、例えば、その対象の「エロさ」の程度を一直線上に並べ、ある限度を超えたら「わいせつ」と認定される、というような基準を意味している。このような基準は、対象の「わいせつ」性はその対象のもつ固有の特質である、という考え方に基づく。

 これに対し、わいせつ罪の本質が、人々が四囲の状況に照らして「いまは見たくないという状況」において否応なくわいせつ物に遭遇してしまい困惑するという事態を防止することにあるとするならば、その定義も基準も、おのずとこれとは異なったものとなる。

 例えば「わいせつ」の定義は、対象たる人、物または行為が有する性的な特質であって、通常の性的羞恥心を備える一般人が当該の具体的な状況下においてそれを知覚したときに、同人に困惑、狼狽、不安その他、社会生活の円滑な遂行を妨げる感情を生じさせる危険のあるものをいう、というようなものになろう。

 そして「わいせつ」という概念が(一定の限度を超えるエロさの程度ではなく)このような具体的な状況との関係によって決まる相対的な概念であるということになると、ある対象が「わいせつ」であるか否かは、それの存在する具体的な状況によって変動することとなる。つまり「わいせつ」性は、その対象のもつ固有の特質ではなく、その対象が置かれた具体的な状況に左右される相対的な性質ということになるのである。

 例えば、従来のわいせつ概念によれば、「下着姿の成人女性は、わいせつか?」という問いに対しておそらくは「わいせつではない」という回答が可能である。実際、1980年代ころに警察の摘発を受けながらも、それでも果敢にギリギリのところを狙って制作・販売を続けていたエロ本業者たちは「どこが限界か?」という境界をあたかも一直線上の一点のように考えて探っていたのだといえる。

「陰毛が見えたらダメなのか?」

「いや、いまは陰毛はセーフらしい」

「じゃあ、何ならダメなのか?」

「どうやら陰裂が見えるとアウトらしい」

「そうか。そこがメルクマールか……」

「ダス イスト リヒティッヒ!」

 しかし、相対的なわいせつ概念によれば「下着姿の成人女性はわいせつか?」という問いに対しては、「それは状況による」としか答ることができないことになる。例えば、女性の下着の広告などに登場する下着姿の女性の写真は、おそらくわいせつとは言えない、ということになるであろう。しかし、同じ女性の下着姿でも会社のオフィスに女性が下着姿で現れたら間違いなく大混乱であるし、わいせつと評価されるのではないか?

 実際、2017年7月にJR静岡駅前で「暑かったから」という理由で下着姿になった43歳の女性が公然わいせつ罪の疑いで現行犯逮捕された、というニュースがあった。43歳だったから逮捕されたわけではない。もちろん、3歳だったら逮捕されなかっただろうが、問題の核心はそこではない。この場合「成人女性の下着姿」は「わいせつ」だと判断されたということなのである。

 しかし一方において、エロ本やエロビデオの中では、全裸でかつ陰毛が見えていても「わいせつ」ではないとされている時代なのである。それゆえ、従来の一直線的な「わいせつ概念」に従えば「下着姿などわいせつではない」と一刀両断にされそうなものなのだが、そうではなかったのだ。

 そして私は、この女性を「公然わいせつ罪」として現行犯逮捕した警察官の感覚と判断は正しかったのだと思う。なぜなら、成人女性が下着姿で駅前をウロウロしていたら、それこそ威厳のある父としては「ヒャッハ~♪」と歓んだらいいのか「今時の女性はまったく……」と顔をしかめ憤ったらよいのか解らず、困惑するからだ。つまり、率直に言って、文字通りの意味での「ありがた迷惑」なのである。

【9】そもそもどんな状況を防止すべきなのか?

 さて、話の筋はだいぶ見えにくくなっているが、結局、何が言いたいのかと言えば、わいせつ罪のあり方については根本的に考え直したほうがよい、ということである。

 これまでも書いてきているように、どのようなレベルの「エロさ」によってこのような「困惑」が生じるかと言えば、それは時と場合による。そこで、このような時と場合とに連動させるような形で、わいせつ罪の規制を行うほうが、よりその実体に適しているのではないか、ということなのである。

 端的に言えば、「昼の世界」において、好むと好まざるとにかかわらず、「わいせつ」な対象と不意に遭遇する、というのがマズいのである。わいせつ罪は、これを防止するために存在している。そう考えるならば、このマズい状態を構成するいずれかの要素が断ち切られるならば、これを規制する必要はないことになる。

 それゆえ、第1に、そもそも状況が「夜の世界」であるならば、わいせつ表現等を規制する必要はない。むろん、ここにいう「夜」とは文字通りの意味ではなく、前述した比喩的な意味での「夜」である。例えば、住宅街、商店街、オフィス街などの「昼の世界」と区別された歓楽街などは「夜の街」とも称されるように、そもそもが「夜の世界」と捉えてよいものであろう。

 そこで、社会においてこのような地域が日常の生活領域とは区別して配置されている場合には、このような場所でのわいせつ表現等については制限の必要はないと考えられる。このような場所は、日常生活を送るうえで「だれもがぜひとも行かねばならぬ」という場所ではないから、そのようなわいせつ表現を見たくない人はそのような場所に足を踏み入れなければよいだけの話だからである。

 これに対して、日常生活において「だれもがぜひとも行かねばならぬ」という場所のだれにも目に付くところでは、逆にわいせつ表現は厳しく規制されてよいと考えられる。例えば、電車やバス等の公共の乗り物内やコンビニエンスストア、ファミリーレストラン等々である。こういう場所においては、成人男女の下着姿の画像のみならず、場合によっては水着の画像も規制されてよいと考えられる。

 つまり、わいせつ表現等の規制においては、このように「場所」によってわいせつ表現規制の程度を分ける、いわゆる「ゾーニング」が採用されるべきである。

 そして同様のことは、場所だけでなく「時間」についても言える。仮に午前零時から午前4時までの時間帯を「夜の時間」と定め、この時間帯においては、それ以外の時間帯とは区別して、テレビ放送などでのわいせつ表現について緩やかに規制するということも考えられてよい。あらかじめそう決められているならば、それに遭遇したくない人たちは、そういう前提で回避行動をとることができるからである。その一方で、それ以外の時間帯におけるわいせつ表現の規制は厳しくするのである。

 第2に「いきなり遭遇する」という事態を防止するための工夫を施すならば、仮にだれもがアクセスできる状況であっても、それ以上にわいせつ表現等を規制する必要はないというべきである。例えば、インターネットの世界ですでによくやられているような「このサイトにはわいせつなコンテンツが含まれています」というような予告をすることもその1つである。また、レンタルビデオ店にあるような「アダルトコーナー」の表示や、目隠しのためのカーテンなども同様である。このような予告があれば、「いまは見たくない」という人はそれ以上立ち入らなければよいだけの話であるから、「いきなり遭遇して面食らう」という困った状況は回避できる。それゆえ、このような工夫が施されるならば、表現内容に関して規制を課す必要はないだろう。

 第3に、当該表現等の目的・態様による規制の緩和である。例えば、大勢の前で性器を露出した裸の画像を表示するとしても、それが大学の授業の内容として行われたのか、道端でそのような意図もなく行われたのでは、異なった規制がなされてよいと考えられる。また、春画の展覧会をすることについても、性教育の授業をすることなどについても、同様に考えることができる。

 つまり「性器が露出している=夜の世界」と捉えるのは早計で、性的興奮を誘因するかとは別次元でそのような表現等をする必要がある場合も存在するのであり、これは認めなければならないだろうと思われる。

 なお、この問題は「どうしても見たくないという人に無理やり見せることが正当化されるか」というのとは、まったく別の次元の問題である。なぜなら、ここで問題とされているのは、社会的法益に対する罪としての「わいせつ罪」の在り方であって、人々が日常生活・社会生活を送るうえで、いきなりわいせつ表現等に遭遇してしまって困惑するということが生じてしまう状況をどのようにしてなくすか、ということが問題とされているのである。これは、個人的法益としての「見たくないものを見ない自由」がどのように保護されるか、という問題とは区別しなければならない。後者は「わいせつ罪」の在り方とは別個の問題として、それはそれで保護が考えられなければならないものである。

【10】結びとして

 最後に「わいせつ表現とインターネット」に話を戻そう。

 インターネット上でのわいせつ表現規制としては「電子メールを開けたらいきなりわいせつ画像が表示された」とか、そういう場合を除けば、ほとんど規制する必要などないのではないか、と思われる。なぜなら、現在、すでに多くのポルノサイトにおいて採用されているような「これから進む先にアダルトコンテンツが含まれていること」の予告さえきちんとなされているならば、優雅にスタバで開いているMacBookのディスプレイや会社で作業中のPCのモニター上に「いきなりわいせつ画像が表示されて困惑する」という状況は生じないからである。

 それゆえ、平成23年の刑法改正の際に「わいせつ電磁的記録等送信頒布罪」の立案担当者が想定していたような、電子メール等でわいせつデータを大量に送信する、というような場合だけを処罰の対象として規制すれば、不都合な事態は防止することができると考えられる。

 その一方で、むしろ積極的に規制すべきものの例としては、2006年12月31日の「NHK紅白歌合戦」で起きた「裸スーツ事件」というのがある。これは、ある出演者の後ろで踊っていた女性ダンサーたちが「女性の裸をデザインしたボディースーツ」を着ていたために、まるで服を着ていないように見えたということで、その後視聴者から「裸ではないのか」「子どもも見ているのに、ふさわしくない」などの苦情が殺到したという事件である。

 この騒動は当時大きな話題になり、これを企画した出演者はNHKに出入り禁止となったという話もある。もっとも、刑事事件になったという話は聞かないので、そうだとすれば、それは、女性ダンサーたちが実際には裸ではなく、ボディスーツを着ていたからかもしれない。

 しかし、この騒動が象徴的に表しているように、ここでの問題は彼女たちが「真実、裸だったかどうか」ではないのである。たとえ真実は裸でなくても、そう見えたのであれば、お茶の間で家族揃って紅白歌合戦を見ていた「威厳のある父」は、面喰らい極度に困惑したハズなのだ。なんなら、食べていた年越しそばを思わず鼻から噴き出したかもしれないのである。

 そうであれば、私見によるならば、まさにこのような場合にこそわいせつ罪が適用されて然るべきなのである。その意味で視聴者たちのお怒りはもっともなことである(そのうえ「実はボディースーツでした(テヘペロ」ってことであれば、「何だよ期待させやがって!」ということでそのお怒りは倍増かもしれない)。

 ところで、私見のような考え方に基づいてわいせつ表現等を規制するという現行法令は存在しないのだろうか、とふと疑問が湧いた。

 そしてつらつら考えてみると、あった。まさに、このような「困惑させる状況」を生じさせないことを社会的法益と捉えてこれを防止している罰則が。それは、法律ではなく、いわゆる「迷惑防止条例」と呼ばれているものである。

 これは、東京都の場合であれば「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不法行為等の防止に関する条例」というのが正式名称であるが、他の道府県でも同様の名称の条例が制定されている。そして、東京都の迷惑防止条例の場合であれば、その5条で「粗暴行為(ぐれん隊行為等)の禁止」との見出しの下に、その1項の柱書きで「何人も、正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であって、次に掲げるものをしてはならない」と規定している。そのうえで、その各号において基本的には「公共の場所」や「公共の乗物」における一定の行為を禁止しているのである。そして、これに違反した者に対しては、原則的には「6月以下の懲役又は50万円以下の罰金」が科せられることになる(同条例8条1項2号)。

 これこそは、まさに人が著しく羞恥したり、不安を覚えたりする事態とならないような公共の場における生活環境を、社会的法益として保護しようとするものと解される。そして、そうだとすると、これは、まさに私見による「わいせつ罪」の保護法益と重なるものと言えるのである。

【11】蛇足として

 最後に、迷惑防止条例が出たところで、ついでに1つ触れておきたいのだが、この東京都の迷惑防止条例5条1項のうち第1号は「公共の場所又は公共の乗物において、衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること」を規定しており、電車内などでの痴漢のうち、比較的態様の軽いものがこの規定に対する違反とされて処罰される。他方、態様の重いものは、刑法上の強制わいせつ罪(刑法176条)として処罰される。

 しかしながら、現在では、強制わいせつ罪の保護法益は「性的自由」と捉えられており、同罪は個人的法益に対する罪であると解されている。つまり、重い態様の痴漢は、個人的法益に対する罪なのだ。ところが、それにもかかわらず、軽い態様の痴漢となると、性的自由に対する罪ではなく、にわかに「公共の場における生活環境」が保護法益となり、社会的法益に対する罪となるのは、なんとも不自然ではないか? まさに「木に竹を接ぐ」という感が否めない。

 さらに、同条例5条1項2号では「次のいずれかに掲げる場所又は乗物における人の通常衣服で隠されている下着又は身体を、写真機その他の機器を用いて撮影し、又は撮影する目的で写真機をの他の機器を差し向け、若しくは設置すること」と規定され、いわゆる「盗撮」等が処罰の対象とされているのであるが、その号が規定している規制場所は「住居、便所、浴場、更衣室その他人が通常衣服の全部又は一部を着けない状態でいるような場所」であって、もはや「公共の場」であることが欠落してしまっている。

 この2号は、平成30年の改正によって新たに付け加えられたものであるが、つまり、もはや同条例5条違反の罪は、純粋に社会的法益に対する罪として把握することが難しい状況にあると言える。

 事ほど左様に、わいせつ犯罪をめぐる状況は、もはやハチャメチャな混乱状態にあるのである。本来であれば、強制わいせつ罪の減軽類型を創設して捕捉すべき「軽い態様の痴漢」を、社会的法益に対する罪である迷惑防止条例における「粗暴行為の禁止」違反でカバーし、そうかと思えば、更には「公共の場」ですらない住居等における盗撮さえも、その一部に取り込んで処理してしまう、という無節操ぶりなのである。

 つまり、何が言いたいかというと「もはやこれって限界なのではないでしょうか?」ということなのだ。

 性的自由に対する侵害罪について類型を増やすとともに、わいせつ表現等に対する規制(わいせつ罪)についても――解釈によるか立法するかはともかく――考え方をアップデートし、時代に即したあるべき規制へと方向転換し、整理し直すほうがよいのではないでしょうか、と強く強く思う次第であります。

(2021/3/27 SUGIYAMA Hiroaki)