素朴な思想と巨人の肩

2021年8月15日


 1 現代人と古代人とでは知能に差があるだろうか? 現代人は古代人に比べて賢いと言えるのだろうか?

 古代ギリシアの哲学者・アリストテレスが生きたのは、紀元前384年から紀元前322年だそうだ。アリストテレスが相当に頭がよい人であったであろうことは、疑いないだろう。もちろん、アリストテレスは、当時の人々の中でも極端に頭のよい人だったのかもしれないが、しかし、このような人が当時からいたことを考えれば、知的な能力としては、当時の人つまり古代人も、現代人も、あまり変わらないのではないか、と思われる。

 その後、多くの人が、生まれ、生き、子孫を残し、死んでゆくということが何世代にもわたって繰り返され、現代人へと至るわけであるが、アリストテレスの時代にすでに当時の人々が現代人と変わらない知的能力を備えていたとすると、その間の人々もまた、現代人と変わらない知的能力を備えていたとういことになるだろう。

 つまり、何が言いたいのかというと、私たちに生まれながらに備わっている知的な能力は、古代人でも、現代人でも、変わらないのだろう、ということである。

 もちろん、現代は、古代や、現代にまでに至るさまざまな時代と比較しても、科学技術をはじめとする文明は最も発展し、人々の生活も、人々の考え方も、社会制度なども、大きく異なっているのは明らかである。

 しかし、今この瞬間にオギャーと生まれ落ちた赤ん坊が秘めている潜在的な知的能力については、古代も、中世も、近代も、現代も、あまり変わらないだろうということなのである。


 2 このように現代に生きる人々も、その有する潜在的な知的能力においては古代の人々とさほどの違いはないであろうということになると、現代人の生活と古代人の生活とを大きく隔てている違いは何かと言えば、それは、それまでの時間の中で多くの人が、考え、試し、失敗し、あるいは成功して、その教訓や成果として次の世代へと引き継いできた「情報の量」であるというほかはない。

 つまり、このような「情報の量」において、現代人は、これまでのどの時代を生きた人々よりも多くの情報を利用することができるのであり、これが、他のどの時代の人たちよりも現代人が有利な点である。

 アリストテレスも、ソクラテスやプラトンといった師匠の考えを参考にして自己の思想を推し進めたであろうが、アリストテレスよりも後の時代の人たちはアリストテレスがその生涯を掛けて到達した成果を、ひょいっと手軽に利用することができたであろうし、時代を下れば下るほど、多くの頭のよい偉人や賢人たちが残した成果を利用することができるので、それを参考にして、より先へ先へと考えを推し進めることが可能となる。

 こういうことを表して「巨人の肩に乗る」と言うらしい。現代に生きる私たちは、先人たちがその一生をかけて解決した問題の解答を一瞬にして知ることができる。そして、それを前提として、自分の一生を掛けて小さな一歩をそのうえに積み重ね、人類をさらに前進させることができる。

 人類は、こうした「巨人の肩に乗る」ことによって、現在の場所までやってきたのだ。


 3 現代に生きる人たちは、だれもが、こうしたこれまでの先人たちが残して来た成果を利用することによって、どんな偉人・賢人たちもかつて到達できなかったような場所から思考を始めることができる。

 しかし、私たちにそれができるのは、私たちがあくまで「巨人の肩の上に乗る」からである。「巨人の肩」に乗らなければ、私たちも、多くの古代人や、中世の人々が通過してきたような「素朴な思想」からスタートしなければならないし、そうなれば、一生をかけたとしても現在の人類が到達している場所へすら、到達することはできないのである。

 では「巨人の肩」に乗るには、どうすればよいのか? それは、言うまでもなく、先人たちの成果を学ぶことである。これまでの時代を生きてきた人たちが、何を、どう考え、試し、失敗し、あるいは成功して、どういう教訓や成果を得てきたのか。それを学ぶことである。

 このような情報の多くは、書物の形で残されているからそれを読んでもいいし、学校などで授業を受けることによっても入手することができる。また、最近では、インターネットを利用することによっても、このような情報を手に入れることは難しくないだろう。

 いずれにしても、何らかの形で「学ぶ」ことによってしか、このような「巨人の肩に乗る」ことはできないのである。


 4 現代人の間にも、もちろん、頭のよい人とそうでない人は存在するし、個々人の知的能力のレベルはその間に分布しているのだろう。頭のよい部類に属する人たちは、他の人たちには容易に理解できないようなことも、割と要領よくスッと理解できてしまうかもしれないし、それゆえに周囲から感心されることも多いかもしれない。

 しかし、そういう頭のよい部類に属する人たちというのも、過去の時代の中にも、当然に何人もいたわけである。そして、そういう人たちが一生のうちに考え、推し進めることができた距離は、そうでない他の人たちに比べてずっと長かったかもしれない。しかしそれでも、人が一生という限られた時間の中で進むことができる距離には限界があり、現在の人類全体の到達したレベルには、到底、到達することはできなかったのである。

 他方で、それほど頭のよくない平凡な人たちであっても、過去の偉人・賢人たちが残した成果に学び、利用すれば、過去の頭のよかった人たちさえ到達できなかった場所に一瞬にして到達することできる。

 産み出すことの苦労に比べれば、産み出されたものを抱き上げることは、はるかに容易い。偉人・賢人が一生をかけて産み出した成果を、私たちはたかだか1時間やそこらの大学の講義で、ヒョイッと抱き上げることができるのである。


 5 人は、無力で、真っ新な状態で生まれる。その後、幼年期、少年期、青年期と成長するにつれて、活動範囲も、家庭から、学校、地域、社会へと徐々に広がり、多くの人と出会い、多くの思想に触れるようになる。そして、そうした思想の中には、素朴で解りやすいものもあれば、ちょっと考えただけではその意図や趣旨を推し量ることができないものもある。

 例えば、「弱肉強食」や「自助の原則」、「優生思想」などといったものは、前者の例である。町中でホームレスの人たちを見かけ、「汚い」「臭い」などという生理的な嫌悪感に触発されて、「なんでこんなヤツらがこんなところにいるんだよ! こんなヤツらは社会に不要だろ?」などという考えに至ることは、割と少年期に抱きやすい「素朴な思想」の1つだと言える。

 また、男女の性別による「性役割論」などもそうかもしれない。動物の生態や人類の過去における生活上での役割分担の風習などを論拠としながら、男女にはそれぞれの役割があり、それを「生物本来のあるべき姿」などとして肯定する考え方である。この考え方なども、根強く染まる人たちがいるものの1つであろう。

 他方で、このような「素朴な思想」とは逆に、自分の頭で少し考えただけでは理解しがたいが、現在では確固たるものとされている法思想もある。

 刑法の領域でいえば「故意責任の原則」や「責任能力」の考え方などはその例で、刑法を学んだことのない人たちからは頗る評判が悪いが、刑法学では確立された原則といえる。

 以前、大学で刑法総論の授業を担当していたころに感じたのだが、学生の中には「その人のせいで他人が死んだのなら、その人は死刑でいいんじゃないか?」という素朴な意見を持っている人が、結構いるのである。つまり、故意責任どころか、純粋な結果責任主義であり、「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典のような考え方なのだが、もちろん、そのような考え方が妥当性を持たないことは、少し議論を重ね、思考実験をしてもらえば、多くの人は「やっぱりそれじゃあマズイか……」と理解してくれる。

「じゃあ、例えば、君の彼女がさ、駅の階段で、過っておじいさんとぶつかってしまって、そのおじいさんがその弾みで階段を転げ落ちて、打ち所が悪くて死んでしまった場合、彼女は死刑でいいと思う?」

 そう問いかけてみれば、さすがに「それでもいいと思います」などと言う学生はいない。その意味では「素直に学ぶ気持ち」や「考えを変えることを拒否しない柔軟さ」があれば、多くの場合は、現時点において支持されている考え方の妥当性を理解するようになるのである。


 6 頭のよい人たちは素晴らしい、と思う。それは、まるで処理速度の速い高性能のCPUのようなもので、平凡な人たちが理解するのに苦労しているようなことを、一瞬のうちに理解してしまうような輝きがそこにはある。

 しかし、そうした能力も、学んでこそ輝くもので、学ばなければ、平凡な人たちが学ぶことによって到達できる場所にすら、一生かけてもたどり付くことはできないだろう。なぜなら、学ぶことは、過去に生きた偉人・賢人たちを全員味方にするようなものなので、たとえその人が希代の天才であっても、たった1人が立ち向かって敵うような相手ではないからだ。

 頭のよい人が学べば、それこそ「鬼に金棒」だろう。しかし、どんなに頭のよい人も、学ばなければ、時として大きな失敗をおかすことになる。

 あんな「素朴な思想」をだれもが視聴できるインターネット上で自信満々に開陳したことに、大いに驚いた人もきっと少なくなかったことだろう。

 だが、学ぶことはいつでもできる。いつでも始められる。

 願わくば、今回の炎上騒動が、これまで学んでこなかった人にとって、これから学ぶことへのきっかけとなりますように。

(2021/8/15 SUGIYAMA Hiroaki)