少年法の適用年齢引下げ問題を振り返って

2020年12月23日/す

 早いもので、2020年(令和2年)ももう暮れようとしている。少年法の適用年齢引下げ問題について「見送りの方向」との報道がなされたのは今年1月のことだった。

 すでに2018年(平成28年)6月に選挙権年齢が「満20歳以上」から「満18歳以上」に引き下げられ、2022年(令和4年)4月には、民法の成人年齢が20歳から18歳に引き下げられる。これらに合わせて、少年法の適用年齢である「少年」の定義(少年法2条1項)を「20歳に満たない者」から「18歳に満たない者」へと引き下げることが、法制審議会の少年法・刑事法(少年年齢・犯罪者処遇関係)部会で検討されていた。その年齢の引下げが見送られたのだ。法制審議会は、その代わりに18歳、19歳の少年について原則逆送事件の犯罪の範囲を広げるなどの改正綱要をまとめ、この10月に法務大臣に答申したらしい。

 少年法の適用年齢引下げについては、日弁連や各弁護士会はこぞって反対していたから、これが見送られたという結果を受け、みなホッと胸をなで下ろしたことであろう。私もこれに水を差すつもりは毛頭ない。

 しかし、報道によれば、このような見送りとなった原因は「与党内の調整がつかないため」とのことである。つまり、自民党は強く推していたものの、これに真っ向から反対していた公明党が折れなかったために流れた、ということのようだ。

 そして、このような顛末に関しては、正直釈然としない気持ちが残る。それには2つある。


 1つは、日弁連や弁護士会が会長声明などで反対を表明しても、それは政府や法務省には露程も考慮されていないように感じられるということである。今回だって、公明党が反対しなければ、日弁連や各弁護士会がどんなに声を大にして反対論を展開したところで、顧みられることはなかっただろう、という気がする。おそらく少年年齢の引下げは押し切られていたであろう、と。

 これは、換言すれば、日弁連や弁護士会が軽んじられている、ということである。どうせ何もできやしないと思われているのではないか。そんな気がする。

 これについては、日弁連も各弁護士会も、その現実を真摯に受け止め、本当に真面目に対策を講じなければならない時期が来ていると思う。そうでなければ、日弁連も弁護士会も、社会に対して何らの影響力をも持ち得ない団体に成り下がってしまうことだろう(いや、すでにそうなのかもしれないが)。


 もう1つは、今回の件に対する日弁連や弁護士会の対応が単なる「反対」に終始したことである。つまり「現状維持」的なのだ。

 こう言われると「年齢引下げに反対だから反対なのだ」と反論されそうであるが、私が言いたいのは、本当に反対するだけでよかったのか、ということである。

 もちろん、私も少年年齢の引下げには反対だ。だが、しかしそれならば逆に、現在の「20歳に満たない者」という少年の定義が最良かと言えば、どうだろう? 私にはそうとは思えない。

 例えば、大学生くらいの年齢の子たちが数人で犯罪を実行し、逮捕・勾留されたという事件の場合に、その中に19歳以下の子と20歳以上の子が混在していることは往々にある。その場合、一部は少年として扱われ、一部は成人として扱われ、まったく異なった手続に服することになる。しかし、これは合理的だろうか。刑事弁護をやっていれば一度は直面する疑問であろう。

 もちろん、一定の年齢で少年と成人とを区切れば、それを何歳に設定したところで同様の問題は起きる。しかし、19歳と20歳は、大学に進学した子であれば、ちょうどいずれも大学在学中という年齢である。例えば、大学のサークルの仲間が数人で犯行に及んだという場合にわずかな誕生日の前後でそこに径庭の差を設けることが合理的だとは思われない。

 一方、アメリカなどでは、近年の脳科学の知見に基づいて25歳程度までは行動制御能力が未成熟であるとして、少年への刑罰の緩和や少年法適用年齢の引上げなどが目指されるようになっているとの指摘もある。

 このような点に鑑みれば、日弁連や弁護士会などは、むしろ「少年法適用年齢の引上げ」を主張してもよかったのではないか。私にはそう思えてならないのだ。例えば、少年法2条1項の「少年」の定義を「26歳に満たない者」と改正すべきだと主張してもよかったのではないか。


 犯罪白書を見ると、少年犯罪のうち、刑法犯に危険運転致死傷・過失運転致死傷等を加えた罪の検挙人員は、昭和58年(1983年)の31万7438人をピークに減少傾向にあり、令和元年(2019年)には3万7,193人となっている。ピーク時からみると約10分の1である。この数は、平成15年(2003年)には約20万人であったので、そこから令和元年(2019年)までの16年間で約5分の1に減少している。

(犯罪白書 令和2年版 より)

 これに伴って、少年鑑別所は、現在ガラガラの状態だ。平成15年(2003年)に2万2千人ほどいた入所者が、令和元年(2019年)には、5,749人である。仮に平成15年当時の稼働率を100%と仮定しても、現在の稼働率は30%を割っていることになる。

(犯罪白書 令和2年版 より)

 また、少年院の入院者数も同様で、平成15年(2003年)に6千人ほどいた入院者が、令和元年(2019年)は1,727人となっており、これもやはり30%以下にまで減少している。

(犯罪白書 令和2年版 より)

 つまり、何が言いたいかというと、いまの日本では、これまで少年事件に対処するために用意されてきたインフラやマンパワーが余っている、ということだ。

 そこで、仮に少年年齢を6歳程度引き上げたとしても、これによって増加した少年事件に対して、家庭裁判所、少年鑑別所、少年院などは十分に対応することができる、ということである。むしろ、こうしてダブついているインフラやマンパワーを有効活用することになる。

 家庭裁判所、少年鑑別所、少年院などは、成人に対する処遇に比べ、個々人の特性に応じたきめ細かな対応がウリだ。もしこのような少年事件に対するきめ細かな対処が有効に作用し、これまで一定の成果を上げて来たのだとしたら、これを失うことは大きな社会的損失だろう。少年事件が減っているからと言って一度縮小させてしまったら、元に戻すことは容易ではないのだ。

 それよりはむしろこれを有効活用し、これまで対応してこれなかった20歳から25歳までの若年犯罪者に対してまで、このようなきめ細かな対応を拡張するのだ。そうすれば、それこそ社会にとってよい効果をもたらすことが期待できるというものである。


 ある1つの年齢を境にして「大人」と「子ども」とを截然と分け、社会内における扱いを区別する、ということは、多くの時代の多くの社会で行われてきたことだろう。だから、選挙権と民法上の行為能力(成年)と婚姻適齢と、そしてその他の何から何までをことごとく同一の年齢で統一的に区別したらさぞかし気持ちがよかろう、という考えは、理解できないではない。

 しかし、このような対応は、実はかなりザツなものだ。なぜなら、それぞれの法制度における年齢による区別は、それぞれの法制度によってその趣旨を異にするものだからである。そうであれば、それぞれ制度趣旨に最も適した年齢が、それぞれに存在するはずであり、それが一致するとは限らない。むしろ一致しないことのほうが普通であろう。選挙で投票できる年齢と喫煙の許される年齢とを一致させることには、何らの合理性も認められない。

 それを何でもかんでも無理やり1つの年齢に結びつけ、すべてを「大人/子ども」の二分論で対処しようというのは、頑迷で不合理な美意識以外の何ものでもないと思う。

 だから、日弁連や弁護士会は「少年年齢の引下げ」に反対するばかりではなく、むしろ近年の脳科学の知見に基づき、勇猛果敢に「少年年齢の引上げ」こそ主張すべきであったし、今後もそれを目指して活動すべきである、と私は思うのである。

2020/12/23 SUGIYAMA Hiroaki